きんさい祭とは
きんさい祭の歴史
「きんさい」とは三次地方の方言で「いらっしゃい」の意味。 「おいでなさい」を方言で「きんさい」といい、参加しにきんさい、観にきんさいという意味を込めた三次きんさい祭は、市民一人ひとりが参加して創りあげていくお祭り(イベント)です。
(一社)三次青年会議所(三次JC)の提唱によって「見つけようふるさと、みんなでつくろう三次の祭り!」をテーマに、市民の連帯と、ふるさと再発見を求めて、1976年(昭和51年)に誕生しました。
毎年7月最終の週末、梅雨も明け夏本番を迎えた三次盆地はお祭りムード一色の熱気につつまれます。三次きんさい祭には様々な村(イベント会場)があり、子ども達に大人気の催し物が開催される「わんぱく村」、三次近郊在住の外国人の方々との親善交流を目的とした国際色豊かな「国際村」、華やかな催しの「きんさいステージ」、中国地方を中心として各地から様々なものを集めた「物産交流市場」、また過去にはイベント盛り沢山の「きんさい村」、フィナーレを飾る「21世紀村」などもあり、各村やイベント会場の特色で楽しく迎えてくれます。
きんさい祭のメインイベントは、ハッピや浴衣姿の市民が「鼓おどり三次どんちゃん」という太鼓、鉦、篠笛、踊りで構成された、ハイビートなリズムの楽しい練り込み囃子に乗って紙太鼓を打ち鳴らし、三次町~巴橋~中央通りの繁華街1.5Kmを約3時間練り歩く「市民大パレード」で、友情出演も含め、約60数団体3,000人のパレード参加者があり、年々その輪は広がっています。
第40回までは、年当初に(一社)三次青年会議所で三次きんさい祭に対する準備組織を構築して取り組み、三次市長を頭とした三次きんさい祭振興会に祭の企画上程を行い、同時に実行委員長に就任しておりました。
こうして形づくられた実行委員会組織で、三次きんさい祭は多くの市民や協力官庁ならびに企業の皆様の力で創られてきました。
第41回目の三次きんさい祭よりは、新たに企画実施本部が立ち上げられ、これからの祭運営を創り上げています。
また、第40回までのきんさい祭開催テーマは(一社)三次青年会議所より輩出の実行委員長を中心とした実行委員会にて選定し掲げられておりましたが、第41回開催よりは一般公募にて市民のみなさまより寄せられたテーマを企画実施本部にて選定し、市民と各種団体、行政が一体となり“協働まちづくり″に繋がる新たな三次きんさい祭を育めるよう運営しております。
どんちゃんとは?
パレードの中心となる三次どんちゃんは、昭和53(1978)年の第3回三次きんさい祭で初披露されました。この曲は、三次太鼓の生みの親でもある天野宣氏によるもので、巴峡の夏の夜を飾る鵜飼の光景を盛り込んだ8拍子の軽快なテンポです。
現在の「三次どんちゃん」というネームは後に定着したもので、第3回の当初は「ばか囃子」、踊りは「ばか踊り」と呼ばれていました。この「ばか」というのは、場に加わるということから選定されたものですが、広く定着するには及ばず名称変更となりました。
続く名称は、第7回の実行委員会(天野英樹実行委員長)が広く市民から募集し「鼓おどり三次どんちゃん」となりました。
近年では、祭のパレード形態の変化から「三次どんちゃん」が定着し、一般化しており、今日では市内の各地域や小学校をはじめ、それぞれの職域でも「どんちゃん」は親しまれています。
また、遠征では、恒例参加として広島フラワーフェスティバル、庄原よいとこ祭、三良坂祇園まつり等があり、三次市を代表する囃子として多くのイベントに参加しています。過去には福山ばら祭、三原やっさ祭りにも出演させて頂いておりました。
祭への参加者数が増加するに比例して、紙太鼓も一気に普及していきました。これは、高価な柄付太鼓に対して、少々教習を受ければ簡易に自作でき、なおかつ軽量で扱いやすい上に良い音がでるとあって人気もあり、実行委員会も毎年紙太鼓作り講習会を実施しています。
ご存知、忠臣蔵のお話で有名な赤穂義士の一人菅谷半之丞は、三次に身を隠し荒れ果てた生活を送っていましたが、ある夏の夜、飛んできた虫が障子に ぶつかり、ポン・ポンと音をたてることにヒントを得て、竹枠に和紙を貼って素朴な紙太鼓を作ったのです。人知れず打ち鳴らしながら討ち入りの陣太鼓の響き を想い、己を励ましていたのでしょう。
そして元禄15年12月14日、四十七士は吉良邸に討ち入り、見事本懐を果たしました。その後、半之丞が作った紙太 鼓は誉れ高い遺品として鳳源寺に保存されていましたが、火災で焼失してしまい今はありません。この逸話も絡み、紙太鼓が普及していった必然性を感じさせます。