■どんちゃんとは? (2008年06月05日編集)

  パレードの中心となる三次どんちゃんは、昭和53(1978)年の第3回三次きんさい祭で初披露されました。この曲は、三次太鼓の生みの親でもある天野宣氏によるもので、巴峡の夏の夜を飾る鵜飼の光景を盛り込んだ8拍子の軽快なテンポです。

  また現在の「三次どんちゃん」というネームは近年定着したもので、第3回の当初は「ばか囃子」、踊りは「ばか踊り」と呼ばれていました。この「ばか」というのは、場に加わるということから選定されたものですが、広く定着するには及ばず名称変更となりました。

  続く名称は、第7回の実行委員会(天野英樹実行委員長)が広く市民から募集し「鼓おどり三次どんちゃん」となりました。

  近年では、祭のパレード形態の変化から「三次どんちゃん」が定着し、一般化しており、今日では市内の各地域や小学校をはじめ、それぞれの職域でも「どんちゃん」は親しまれています。

  また、遠征では、恒例参加として広島フラワーフェスティバル、福山ばら祭、三良坂祇園まつり等があり、三次市を代表する囃子として多くのイベントに参加しています。

  祭への参加者数が増加するに比例して、紙太鼓も一気に普及していきました。これは、高価な柄付太鼓に対して、少々教習を受ければ簡易に自作でき、なおか つ軽量で扱いやすい上に良い音がでるとあって人気もあり、実行委員会も毎年紙太鼓作り講習会を実施しています。

  また、ご存知、忠臣蔵のお話で有名な赤穂義士の一人菅谷半之丞は、三次に身を隠し荒れ果てた生活を送っていましたが、ある夏の夜、飛んできた虫が障子に ぶつかり、ポン・ポンと音をたてることにヒントを得て、竹枠に和紙を貼って素朴な紙太鼓を作ったのです。人知れず打ち鳴らしながら討ち入りの陣太鼓の響き を想い、己を励ましていたのでしょう。そして元禄15年12月14日、四十七士は吉良邸に討ち入り、見事本懐を果たしました。その後、半之丞が作った紙太 鼓は誉れ高い遺品として鳳源寺に保存されていましたが、火災で焼失してしまい今はありません。この逸話も絡み、紙太鼓が普及していった必然性を感じさせます。